ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相
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2021年8月22日日曜日
[惹句どんどん] 佐藤尚武(政治家)
昭和20年7月20日 佐藤大使から東郷外相への電文
「スデニ交戦力ヲ失イタル将兵及ビ国民ガ全部戦死ヲトゲタルトモ、タメニ社稷(しゃしょく)ハ救ワルベキアラズ7千万ノ民草枯レテ上ゴ一人ノ安泰ナルヲ得ベキヤ。我ハ講和提唱ノ決意ニ帰着ス。満州事変以来アマリニモ外交ヲ軽侮シ国際関係ニ無頓着ナリシコトガ今日ノ災イヲ招キタル原因ナリ。本使ハモハヤ目的達成ノ望ニ無ク、過去ノ惰性ヲ持ツテ抵抗ヲ続ケオル現状ヲスミヤカニ終止シモツテ国家滅亡ノ一歩手前オイテコレヲ食イ止メ、7千万同胞ヲ途端ノ苦シミヨリ救イ民族ノ生存ヲ保持センコトヲ念願ス」
P147
佐藤自身、無条件降伏以外に道はないと考えており、7月20日に東郷(外相)に宛てた電報のなかで「七千万の民草枯れて上御一人安泰なるを得べきや」とまで述べていた。佐藤のこの一言に、問題の本質は集約されている。
中公新書『戦争はいかに終結したか』(千々和泰明著、2021年)より
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「佐藤尚武」の解説
佐藤尚武(さとうなおたけ)
[生]1882.10.30. 大阪 [没]1971.12.18. 東京
外交官。旧津軽藩士の子に生れ,同藩の佐藤家の養子となった。 1906年ロシア駐在を振出しにハルビン総領事,ポーランド公使,ベルギー大使,フランス大使,外務大臣を歴任し,42年ソ連大使に就任,第2次世界大戦終戦時の大使として重任を果した戦前外交界の長老。満州事変当時,国際連盟において日本代表として孤軍奮闘したが,33年連盟脱退に際会した全権となった。 37年林内閣の外相として議会で,「危機を招くも招かざるもみな日本の意図による」と演説,軟弱外交と非難された。終戦前,ソ連を通して連合国との和平交渉にあたったが,45年7月 20日付の終戦意見電報は有名。 47年参議院議員,49年 11月から 53年5月まで参議院議長であった。
2021年8月21日土曜日
[積読立読斜読] 『短編回廊』より「オレンジは苦悩、ブルーは狂気」(デイヴィッド・マレル)
本書は古今東西の絵画から発想を得た短編小説集で、基本的に新作なのですが、本作はコンセプトは同じものの新作ではなく、30年前に発表され「ブラム・ストーカー賞」を得た作品だそうです。
一目見てゴッホの作品とわかる「糸杉」(Cypresses)から着想を得た本作は、ほぼゴッホを想像させる作家と、その作品解説を試みる若い美術評論家と、その友人の交流をもとに、
ゴッホが作風を変化させ、また精神的にも苦しめられた南仏アルル時代に、作風と精神的変化の隠された事実があるという、一種SF的な展開をする佳作でした。
産経新聞の記事によると「糸杉」は欧州では死や喪の象徴とされ、キリストが磔刑に処された十字架も糸杉で作られたという伝説があるそうです。欧米人には基礎教養なのかも知れません。
ゴッホ 1853‐90 (Vincent van Gogh)
オランダの画家だが,後半生をフランスで送った。後期印象派を代表する一人。オランダではホッホ,フランスではゴーグと発音される。ベルギー国境に近い,北ブラバント州の小村フロート・ズンデルト Groot‐Zundert で新教の牧師の長男として生まれた。
生来の極端な性格がわざわいして,その前半生は失恋と失職による挫折感に満ち満ちている。1869年,美術商グーピル商会につとめるが,76年解雇される。短期間イギリスで語学教師として働いたのち,一念発起して,77‐78年,アムステルダムの神学校,ついでブリュッセルの伝道師養成所で学び,無給の伝道師としてベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュにおもむく。しかしここでも,80年にその常軌を逸した振舞いにより教会から解雇され,失意のどん底に陥る。
幼少より絵心のあったゴッホが画家になる決心をしたのはこの頃であり,ブリュッセルのアカデミーで数ヵ月間学んだのち,画商として一家をなしつつあった弟テオ Theo の経済的援助に頼りきったまま制作をつづけた。宗教的情熱と一体となったこの時期の作品は,ミレーの深い影響もあり,社会の底辺の虐げられた人々にたいする共感に根ざしている。一時期,憐憫(れんびん)から同棲した娼婦シーンをモデルにした素描《悲しみ》(1882),質朴な農民生活を描いた《じゃがいもを食べる人々》(1885)などはそのよい例である。
しかしながら,画家としての才能が開花するのは,86年から88年にわたるパリ生活で印象主義の洗礼をうけてからである。それまでの暗い鈍重な色彩は消え失せ,《タンギー親爺》(1887)に代表される明るい筆触が画面を満たすようになる。これにはまた,日本の浮世絵版画からうけた強い印象がはたらいている。事実,88年,そもそもゴッホは,日本のイメージを求めて南仏のアルルへと向かったのであった。いわゆる〈ゴッホの耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活を別にすれば,アルル時代はゴッホにとって実り豊かなものであった。この時期の《ひまわり》《麦畑》《糸杉》などでは,ぎらぎらした量感ある色彩とうねるような筆触によって,原初的ともいうべき自然のエネルギーを画面に噴出させ,また《夜のカフェ》(1888)では,強烈なコントラストによって,カフェにたむろする人間存在の狂気すらあばきだした。
ゴッホ自身狂気と無縁でなく,89年5月サン・レミの精神病院に収容された。しかし創作意欲は失わず,この頃描かれた《星月夜》は,自然と感情とが狂おしいまでに一体になろうとうごめいている,画期的な作品である。90年5月,パリ近郊のオーベール・シュル・オアーズのガシェ Gachet 博士――著名な美術愛好家でもあった――のもとにあずけられ,いかにも病的な博士の肖像と,死の影が色濃くただよう《麦畑のうえの烏》を残し,7月末ピストル自殺をとげた。 本江 邦夫
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[惹句どんどん] 永井陽之助(国際政治学者)
合衆国の盟邦日本の出現は、
かならずしも冷戦の副産物ではなく、
アメリカの戦時構想のなかに胚芽をもち、
すでに予定されたコースであった
という解釈も成り立つ
P167
太平洋戦争とそれに引き続く戦後の占領を通じ当初アメリカが何をおいても実現しようとしたのは、「非武装」かつ民主化を通じた「親米」日本であった。一方、もっとも避けるべきは、「武装・反米」日本の容認であり、あめりかはこの「武装・反米」日本という「将来の危険」を重視して、これとの「妥協的平和」ではなく、「紛争原因の根本的解決」の極に近い戦争終結形態を選択した。国際政治学者の永井陽之助は、「合衆国の盟邦日本の出現は、かならずしも冷戦の副産物ではなく、アメリカの戦時構想のなかに胚芽をもち、すでに予定されたコースであったという解釈も成り立つ」と論じた。戦後日米同盟の成立は、米ソ冷戦が触媒となったとはいえ、こうした土壌のうえにあるという意味で戦争終結過程と連続的である。
『戦争はいかに終結したか』(千々和泰明著、中公新書、2021年)より
[積読立読斜読] 『戦争はいかに終結したか』(千々和泰明著、中公新書、2021年)第6章 湾岸戦争・アフガニスタン戦争・イラク戦争
近現代の戦争の終わり方を新書にまとめた良書。戦争の終結については個別事例の研究はあるそうですが、包括的な研究は日本では少ないそうです。戦争終結という「出口戦略」を「紛争原因の根本的解決」と「妥協的平和」のジレンマの中で決まるという視点は卓見。一章ずつスローリーディングします。
本日は「第6章 湾岸戦争・アフガニスタン戦争・イラク戦争」を読みました。
P228
多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退したが、イラクの独裁者には延命を許した。逆に、テロに対するアメリカの恐怖と怒りが、アフガニスタンでタリバン政権を、イラクでサダム・フセイン体制を打倒することになった。
湾岸戦争では、多国籍軍は「現在の犠牲」の問題にきわめて敏感であり、逆にフセイン体制の「将来の危険」を軽視していた。そのためフセイン体制との結果としての共存という「妥協的平和」の極に傾いた戦争終結形態を迎えた。ところがアフガニスタン戦争とイラク戦争では、有志連合側にテロや大量破壊兵器をまぐる「将来の危険」が高いと認識された反面、特にイラクの場合は「衝撃と畏怖」概念にもとづく作戦計画によって「現在の犠牲」は低く見積もられ、交戦相手政府・体制の打倒という「紛争原因の根本的解決」の極へと転回することになる。
P257
戦争終結に関するアメリカの態度は、わずか十数年のあいだに交戦相手との共存から打倒へと転回した。そのことは、戦争終結形態が「将来の危険」と「現在の犠牲」のバランスに大いに影響されるものであることを改めて示している。
湾岸戦争【わんがんせんそう】
1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻し,これに反発した国によって米軍を主力とする多国籍軍が組織され,クウェートからのイラク軍の撤退を求めた。しかし,イラク政府が応じなかったため,国連安全保障理事会の武力行使容認決議を後ろ楯に,多国籍軍は1991年1月17日にイラクへの空爆を開始し湾岸戦争が始まった。2月24日地上での戦闘が開始されたが,2月28日クウェートからイラク軍が敗走し,クウェート解放という所期の目標が達成されたため戦闘が停止された。戦後イラク領土内10km,クウェート領内5kmに暫定中立地帯が作られ,国連イラク・クウェート国境監視団が行動を展開している。1994年11月,イラクはクウェートの主権と,国連の設定した国境を認めた。なお日本は多国籍軍への国際貢献として130億ドルを支援したが自衛隊の派遣は拒否した。
百科事典マイペディアの解説
アフガニスタン戦争【アフガニスタンせんそう】
アフガン戦争とも。1978年―1992年の,親ソ連政府と反政府ゲリラの戦争。1978年アフガニスタン人民民主党が軍事クーデタで政権を奪取,親ソ連の社会主義政権を樹立した。しかし宗教弾圧や急激な改革を断行したため,武装ゲリラによる反政府闘争が開始された。1979年12月,親ソ政権の確立を図ってソ連軍がアフガニスタンに侵攻。これに対して,米国などがゲリラを支援する形で介入して戦争は長期化し,500万ともいわれる難民が発生した。ソ連では戦費が財政を圧迫し,反戦論も浮上して1989年2月にアフガニスタンから撤退。1992年には,社会主義政権にかわってイスラム協会のラバニを首班とするゲリラ政権が樹立されて戦争は終結した。しかし,長い戦乱で国内はゲリラ勢力の群雄割拠状態となっており,新政権の権力闘争のため1993年にはアフガニスタン内戦へと発展した。ゲリラは地域や民族集団を基盤にしており,主要なものにはイスラム協会のほか,イスラム党ヘクマティヤル派,シーア派のイスラム団結体,パキスタンへの難民を主体とするタリバーンなどがある。1996年にはタリバーンが首都を制圧し,反タリバーンの北部同盟とタリバーンの対話が国連の仲介により行われたが不調に終わった。2001年米国における〈9.11事件〉後,その首謀者をかくまっているとして米英軍がタリバーンを攻撃し,同年末には反タリバーン勢力によるアフガニスタン暫定行政機構が国連の仲介で発足した。
百科事典マイペディアの解説
イラク戦争【イラクせんそう】
2003年3月20日,米英を中心とする連合国軍がイラクの大量破壊兵器に関する国連決議違反を主な理由として,イラク全土に1ヵ月余に及ぶ地空からの軍事攻撃を行った戦争。4月9日首都バグダッドに進軍した米軍は市民らとともにフセイン像を倒し,このころフセイン政権は事実上崩壊し,5月1日ブッシュ米大統領は戦闘終結を宣言した。開戦に先立ち,国連査察団がイラク国内を査察したが,大量破壊兵器の保有は立証できず,疑惑のあるかぎり軍事行動やむなしとする米英と,これに反対するフランス,ドイツ,ロシアとが国連安保理事会で対立したまま,米英は開戦した。その後の経緯からしても,戦争の目的はフセイン政権打倒にあったと見られる。政権打倒後,曲折をへて5月から連合国暫定当局(CPA。長官はブレマー)が占領統治に当たり,イラク人は補助的役割として起用され,7月には統治評議会(25人)が発足した。この間,旧政権下で抑圧されたシーア派が台頭した。潜伏していたフセインは12月に拘束されたが,各地におけるゲリラ的反米・反占領活動は活発化し治安状態が悪化,占領軍の犠牲者も増加した。2004年3月,統治評議会は暫定政権への移行に備えてイラク基本法を定め,6月には暫定政府のアラウィ首相,ヤワル大統領と閣僚が決まり(同時に統治評議会は解散),CPAから暫定政府に主権が移譲され,2005年1月,移行国民議会選挙でシーア派の統一イラク連合が大勝。同年4月には移行国民議会でクルド愛国同盟議長タラバニを大統領に選出,シーア派のジャファリを首相とする移行政府が発足し,2005年10月実施の国民投票で承認された新憲法のもと,同年12月国民議会選挙が行われ,2006年5月マリキ(シーア派)を首相とする新政府が初成立した。米国オバマ政権は2011年末米軍部隊の撤退を完了させ戦争終結を宣言した。〔日本とのかかわり〕 イラクでの治安維持活動には約30ヵ国が参加した。日本では2003年7月〈イラク復興支援特別措置法〉が成立(4年間の時限立法),翌年1月には〈非戦闘地域〉とされる南部のサマワに自衛隊が〈人道支援〉をかかげて派遣されたが,前年11月には日本人外交官2人の殺害事件も起こっている。2004年春には日本人3人の人質事件,ジャーナリスト2人の殺害,2005年5月の英国民間軍事会社社員の日本人殺害事件などが続発した。
百科事典マイペディアの解説
9.11事件【きゅういちいちじけん】
2001年9月11日,ハイジャックされた4機の旅客機のうち,2機がアメリカのニューヨークでワールドトレードセンター(世界貿易センター)ビルに,他の2機がワシントンの国防総省とペンシルベニアの原野に激突し,3000人を超える死者を出した事件。同時多発テロともいう。事件をウサマ・ビン・ラディンに率いられたアル・カーイダの犯行と断定したアメリカのブッシュ政権は,その根拠地アフガニスタンへの軍事攻撃をNATO加盟国や中央アジア諸国,日本などの協力のもとに10月に開始,アフガニスタンでアル・カーイダをかくまったとされるタリバーンを2ヵ月余で制圧し,12月にはカルザイ政権による暫定行政機構を発足させた。ブッシュ政権は以後,反テロと大量破壊兵器の拡散防止を掲げ,2002年年頭教書ではイラク,イラン,北朝鮮を〈悪の枢軸〉と呼び,2003年にはイラク戦争を実行するに至った。なお,ビン・ラディンは2004年10月中東の衛星テレビ,アルジャジーラが放映したビデオでこのテロの実行を明確に認めた。2014年11月にはワールドトレードセンター跡地に1ワールドトレードセンターが建設された。
百科事典マイペディアの解説
追記
2021年9月1日(水曜日)
アメリカ軍がアフガニスタンから撤退。
追記
2021年9月16日(木曜日)
アメリカが始めた二つの戦争 力の過信終わらぬ代償
[その他] stereo編『これなら出来る特選スピーカーユニット 2021年』
毎年夏の恒例の音楽之友社によるスピーカーユニット。
今年はオンキョー製の10cmユニットです。
作例はあまり魅力がなかったので、ニアフィールドで聴くデスクトップ版を作ろうかと思ってます。出来ましたら(おそらく年内)報告します。
当方が高校時代を送った1970年代は、オーディー・メーカーが多数ありましたが、無くなってしまいつつあります。
トリオ、サンスイ、パイオニア、オンキョー、などなど。
ストリーミングを小型のスピーカーまたはイヤフォンで聴く時代ですね。
[その他] 雑誌『歴史群像』(2021年8月号)付録 戦艦大和超精密ペーパークラフト(1/700スケール)
(気分は)夏休みの工作として(もう終わりますが)、 雑誌『歴史群像』(2021年8月号)付録 戦艦大和超精密ペーパークラフト(1/700スケール)に挑戦中。
老眼には小さい部品がつらいですが、完成したらまた報告します。
しかし日本人は大和が好きだなあ。
[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 通勤途中のゴミ拾い 8月16日(月曜日)~20日(金曜日)雨続きでサボってます。。。
雨が続きバイク通勤に一時変更してサボってます。
来週から「もう一度いちから出直します」。
3年から4年に一度、大雨による被害が繰り返し起こっていて、これは一時的な災害ではなく、日本の気候が亜熱帯化しているのでは?となると対症療法の対応は意味がなく、住む地域を考えないといけません。
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