ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。 18代インド首相 前グジャラート州首相
太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。
2022年 06月 24日
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Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001
1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された直
後から災害調査と研究が始められた。それは軍や
行政機関が企画し大学、研究所の科学者の協力に
よって始められたもので、8 月 6 日呉鎮守府調査
団、8月8日技術員調査団、大本営調査団、陸軍省
調査班、海軍広島調査団、8月9日西部軍派遣調査
団、8月10日京都大学調査団(陸軍京都師団の要
請による)、大阪大学調査団(海軍の要請による)
8月14日に陸軍省第2次調査班がそれぞれ広島に
入った。これらの調査団には、仁科芳雄、玉木英
彦、木村一治、村地孝一。(理化学研究所)松前重
義(技術院)杉山繁輝、荒勝文策、(京都大学)浅
田常三郎、尾崎誠之助、(大阪大学)大野章造、篠
原健一(九州大学)島田暮夫、松永直、山科清、成
田久一、山岡静三郎、山田正明、桑田岩雄(陸海
軍軍医)など、物理工学、医学の専門家が加わっ
ている。長崎では8月10日長崎地区憲兵隊、8月
14日呉鎮守府調査団などが初期調査を行い、8月
13日には篠原健一、8月14日仁科芳雄が視察のた
め入市した。
広島での各調査団の作業は精力的に進められ、
8月10日には大本営調査団が主催して比治山南の
兵器補給廠で陸海軍合同の研究会議が開かれ、こ
の会議で投下された爆弾が原子爆弾であることが
確認された。原子爆弾の確認は仁科芳雄の指導に
負うところが多く、仁科は災害状況、保存フイル
ムの感光状態などから原爆であると推定し、また
8月10日資料を理化学研究所に送って放射能を測
定させた。理化学研究所からは、玉木英彦、木村
一治、村地孝一ローリンツエン検電気を携え陸軍
省第2次調査班と共に8月14日広島に着き、以後
8 月 17 日まで市内各所で放射能の測定に従事し
た。
人体における被爆の影響を明らかにする上で重
要な初期の病理解剖は、山科清、(8 月 10 日-15
日、12 例)杉山繁輝(8 月 11、12 日 3 例)によ
り似島検疫所でおこなわれた。この15例に岩国海
軍病院の2 例、傷痍軍人広島療養所の 3例および
針尾海兵団救護班の5例と25例が被爆2週間以内
の原爆初期病理解剖例である。
8月15日の敗戦はやがて連合軍の占領体制に移行
し、国内の諸状況に多くの変化をもたらすが、そ
の影響が次第に現実のものとなる以前に8月下旬
から9月上旬にかけて、各大学、研究機関による
広島・長崎に対する調査、および救護の活動が開
始された。東京大学では都築正男が中心となり、8
月22日陸軍軍医学校長井深健次と協議の上、陸軍
軍医学校、理化学研究所の協力のもとに東京大学
調査団をまず広島に送ることに取り決めた。東大
からの参加者は、都築正男を団長に石橋幸雄(外
科)中尾 嘉久(内科)三宅仁・石井善一朗(病
理学)らで、陸軍軍医学校から御園生圭輔、山科
清、本橋均ら、理化学研究所から杉本朝雄、山崎
文男らが加わった。5月29日東京を発ち、30日に
広島に入った。三宅らは8月30日から9月8日ま
でに26例の病理解剖を行い、中尾らにより血液学
的調査、石橋らにより熱傷、外傷の外科的調査が
すすめられた。9 月 2 日には放射能(山崎文男)、
血液学(本橋均)、熱傷外科(石橋幸雄)、病理学
(三宅仁、山科清)などのテーマについて研究会を
開き、9 月3 日都築は記者会見して調査結果を公
表した。
京都帝国大学に対しては8月27日中部軍管区司
令部が、井衛護 を派遣して調査を要請し京都
大学はこれに応えて、8 月末までに研究班を組織
した。班員は舟岡省吾(解剖学)、杉山繁輝(病理
学)菊地武彦、真下俊一(内科学)、ら40名にの
ぼり、2班に分かれて9月3日から4日にかけて広
島に入った。東京大学調査団が宇品を基地とした
のに対して、京都大学研究班は大野陸軍病院を基
地とし、牛田国民学校にも診療班をおいた。杉山
らは9 月5日から17日までに22 例の病理解剖を
行い、これに杉山の初期解剖3例を加えた25例は
大野重安により精査記録された。京都大学研究班
の不幸は、9月17日枕崎台風による大津波のため
大野陸軍病院が倒壊し真下 、杉山繁輝、大久
保忠雄、島本光顕、西山真正、堀 太郎、島谷き
よ、村尾誠、原祝之、 苑谷 一、平田耕造
の殉職者をだしたことである。このため全学をあ
げて計画された京都大学の大規模な総合的現地調
査は挫折に至った。
広島県立医学専門学校は戦争末期に閉校し被爆
直前広島県高田郡甲立町に疎開した。市内の本校
舎は被災し、研究活動は停止したが、玉川忠夫(病
理学)は広島通信病院(院長蜂谷通彦)の協力を
得て、8月29日から10月中旬にかけ19例の病理
解剖を行った。9月11日岡山大学救護隊(隊長林
道倫)が広島に入り、被爆者の救護にあたるとと
もに玉川の病理学的調査をも援助した。
東京帝国大学伝染病研究所へは広島県衛生課から
調査要請があった。急性被爆症状のひとつに下痢、
血便があり、赤痢などの腸管伝染病が疑われたの
である。伝染病研究所は草野信男ら5名を広島に
送った。草野らは、8月29日広島に着き、まず宮
島で病理解剖をおこない、ついで西条の傷痍軍人
広島療養所に赴いた。広島療養所は、被爆直後か
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ら救護活動に従事し、また8月16 日から白井勇、
沢崎博次、小笠原良雄らが病理解剖をおこなって
いた。さらに草野の指導を得て、11月までに21例
の病理解剖を記録している。
長崎へは8月下旬から 9月上旬の間に九州帝国
大学、熊本医科大学、山口県立医学専門学校など
の調査、救護班が入った。
九州帝国大学は福岡県の要請を受けて、8月11
日竜田信義ら28 名からなる第一次救護班を長崎
に送り、この救護班は8月12日から16日まで、新
興善および山里国民学校救護所で治療にあたった。
これと交替で約30名の第二次救護班らが送られ、
8月30日沢田藤一郎(内科)らが長崎に入り、以
後9月上旬から下旬にかけて中島良貞、石川敏夫
(放射線治療学)、小野興作、今井環(病理学)な
どの主として新興善を基地として調査をすすめた。
小野興作らは、この関西部軍管区216兵 病院
となっていた長崎経済専門学校および新興善救護
所で14 例の病理解剖を記録している。
熊本医科大学原子爆弾災害調査班は、放射線医
学(亀田魁輔ら)病理学(鈴江懐ら)主として編
成され、9月3日から8日まで長崎に入った。鈴江
らが9 月5日から 7日までにおこなった病理解剖
は18例である。また、山口県立医学専門学校に、
富田雅次校長以下家森武夫、小沢政治、門田可宋
ら教授6名、助教授1名、学生18名より成る研究、
治療班を組織し、9月12日長崎に着き、20日まで
に調査と救護に従事した。家森らは9月14日から
20 日までの間、新興善救護所で14 例の病理解剖
を記録した。新興善救護所は10月6日長崎医科大
学に移管された。
VII:原爆災害調査と研究 - 学術会議特別委員会
一方中央では、理化学研究所、文部省科学教育
局および学術研究会議の間で、9月14日学術研究
会議、「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設け
ることを決定した。文部大臣(前田多門)による
正式任命は10月24日であった。この特別委員会
は、物理化学地学分科会(科会長西川正治、委員
仁科芳雄、菊池正士、嵯峨根遼吉、木村健三郎、小
島三一郎、篠田栄、渡辺武男)生物学科会(科会
長真島正市、委員野田尚一、三島徳七)土木建築
学科会(科会長田中豊、委員武藤清、広瀬孝太郎)
電力通信学科会(科会長瀬藤象二、委員大橋幹一)
医学科会(科会長都築正男、委員中泉正徳、菊池
武彦、大野章三、井深健次、福井信立、石黒浅雄、
横倉誠次郎、金井泉、勝俣稔、古屋芳雄)農学水
畜産学科会(科会長雨宮育作、委員浅見与七、川
村一水)林学科会(科会長三浦伊八郎、委員中村
賢太郎)獣医学科会(科会長増井清、委員佐々木
清網)の9分科会から構成され、委員長に林春雄、
副委員長に山崎直輔、田中芳雄が就任した。医学
科会にはその後さらに田宮猛雄、佐々貫之、三宅
仁、木村康、舟岡省吾、森茂樹、高木耕三、木下
良順、布施信義、福島憲四、神中正一、中島義良
貞、小野興作、沢田藤一郎、林道倫、古尾野公平、
平井正民、らが委員として加わった。
特別委員会の発足と並行して、日本映画社は原子
爆弾災害記録映画の制作を企画し、記録映画班
(プロデユーサー加納竜一、演出奥山大六郎、相原
秀次、伊東寿恵男)を組織した。記録映画部は特
別委員会の補助機関として科学者と協力して映画
製作にあたった。
特別委員会の組織により、各大学研究機関、病
院などの仕事は連絡集成され、研究費の配分もお
こなわれて、以後1947年まで調査研究がすすめら
れた。その調査、研究の重要な成果は後に日本学
術会議が「原子爆弾災害調査報告刊行委員会(委
員長亀山直人)を設けて整理編集につとめ、1951
年8月「原子爆弾災害調査報告書総括編」1953年
5月「原子爆弾災害調査報告集」第1分冊および第
2分冊として日本学術振興会から出版された。「原
子爆弾災害調査報告書」は両分冊あわせて 1.642
頁、所収の報告は理化学38編、生物学6編、医学
130 編にのぼる。
この研究体制が中断することなく活動を続け、
ひきつづいて組織的な調査、研究を展開したなら
ば、原子爆弾調査の研究の歴史は全く異なった経
過をたどったに違いない。しかし現実には1947年
までの3年間、実質的には1945年後半を中心に1
年半あまりの活動を以てその仕事は中断し、その
ままの形での継続発展はなかった。それは敗戦に
ともなう教育、学術研究体制の刷新変革に影響を
与えたためでもあるが、最も深刻に作用したのは
占領体制である。1945 年9 月19日、連合国総司
令部はプレス・エードを指令し言論、報道、出版
などを規制した。また11月30日の原子爆弾災害
調査特別委員会の第1回報告会の席上、総司令部
経済科学局の担当官は、日本人による原子爆弾災
害研究は総司令部の許可を要すること、またその
結果の公表を禁止する旨を通達した。学術研究会
議会長林春雄はこの措置について12月11日付け
で各研究者に連絡する一方、都築正男を通じて総
司令部と均衡し、1946年2月15日から8月15日
までに期限付きで、許可申請に応じ調査研究を承
認される旨の了解をとりつけた。しかし実際には
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以後 1951 年のサンフランシスコ講和条約締結ま
で日本の研究者による原子爆弾災害についての自
由な研究活動および研究成果の公表は著しい制約
のもとにおかれることになったのである。
VIII:アメリカ側の調査と日米合同調査
アメリカは日本進駐と同時にマンハッタン管区調
査団を日本へ送った。この調査団は正式にはマン
ハッタン管区戦略部門第1技術サービス派遣団と
よばれ、トーマス・ファレルを指揮官としスタッ
モード・ウオレン以下医学班、工学班計30名で編
成され原子爆弾投下の結果についての予備的調査
および進駐アメリカ軍人の安全のための残留放射
能の有無の確認を任とした。2班にわかれ、第1班
は1945年9月8日フアレル以下13名が広島赴き、
第2班は9月9日の長崎に入った。広島への第1班
は 万国赤十字社のマルセル・ジュノーを同行し
た。第1 班のうちフアレル以下の8 名は 9 月9 日
東京についた。一方アメリカ太平洋軍顧問軍医ア
ンエレイ・オーダーソンは、原子爆弾の人体にお
よぼす影響を調査する必要をみとめ、その調査計
画を立案して8月28日総司令部軍医監 ガイ・デ
ニットに提出した、。この計画は総司令部の承認す
るところとなり、12 名の軍医を含む25 名からな
るアメリカ陸軍軍医調査班が編成された。オー
ダーソン、フアレル、およびスタフオード・ウオ
レンは9 月4 日東京で会合し、両調査団が協力し
て医学的報告を作成する方針を決めた。また日本
の研究者が被爆医療から活発な調査をすすめてお
り、実際に日本側の協力が不可欠であると考えら
れた結果、都築正男との接触がはかられた。この
ような経過を経て「日本における原子爆弾の影響
に関する日米合同調査団」が組織されるに至った
のである。
日米合同調査団は、総司令部軍医団、マンハッ
タン管区調査団および日本側研究班の3者から構
成され、オーダーソンが代表となった。アメリカ
側は団員を広島と長崎に分け、広島へは、ヴエル
ネ・メーソンを主任とし、アヴエリン・リーボー、
ジャック・ローゼンバーム、ミルトン・クレー
マー、カルビン・コッホを、長崎へはエルバート・
ドコーンイ、を主任とし、ジョーン・ルロイ、ヘ
ルマン・ターノーバー、ジョン・アヴアムボルト
らを派遣することにした。日本側との打ち合わせ
会議は9月22日東京帝国大学医学部で開かれた。
東京帝国大学から医学部長田宮猛夫のほか、佐々
貫之、吉川泰寿、三宅仁らが出席した。その結果
日本側も調査班を編成し、都築正男を中心に、広
島へ佐々貫之、中尾嘉七、梶谷環、石川浩一、宮
田利顕、篠原毅、石井善一郎、加藤周一、 徹、
久保郁哉、 茂、河村基、大越正秋、島峰徹郎、
ら、長崎へ卜部美代志、三宅仁、吉川春寿、大橋
茂、上田英雄、北本浩、袴田三郎、二階堂惣四郎、
柏戸真一らが赴くこととなった。長崎班は9月28
日、広島班は10月12日それぞれ現地に入り、広
島では9月11日以来広島に救護病院を開設してい
た陸軍軍医学校、東京第一陸軍病院の特設救護班
(大橋茂一ら)が、長崎では九州帝国大学、長崎医
科大学、大村海軍病院がそれぞれ協力した。シー
ルズ・ウオーレンを長とするアメリカ海軍調査班
も長崎で合同調査に加わった。
合同調査はほぼ12月までに終了した。日本側の
調査研究結果は、1946年謄字版刷りで日本側関係
者に配布されたが、アメリカ側の意向で公表され
なかった。後にそれらは日本学術会議編「原子爆
弾災害調査報告集」(1953)に収録されたが、1940
年の報告に比べると削除されている部分が少なく
ない。アメリカでは1946年9月にオーターソン・
シールズ・ウオレン・リーボー・ルロイ・カイラー・
ハモンド・ヘンリー・バーネットらの共同執筆の
形で「日本における原子爆弾の効果研究にのため
の合同調査が報告」がまとめられた。6 章総計
1600頁に及ぶ記述で、公表されることなく、アメ
リカ政府部内資料としてとどめられた。それが一
部を除き、アメリカ原子力委員会情報サービスの
形で公表されたのは、1951年のことである。また
日本では占領期間中、米軍総司令部の命令で原子
爆弾関係の研究成果の公表が厳しく制約されてい
たのに反して、合同調査の一部は、ウオレン・リー
ボーあるいはデユーレイなどの個人の学術論文と
して1946年から1948年にかけてたびたびアメリ
カの専門雑誌に掲載された。
ウオーターソンおよびウオレンの報告書による
と、合同調査団は、(1)日本側記録病理解剖資料、患
者病歴を再検討、(2)生存患者および後日死亡した
者の調査、(3)入院患者の臨床調査、(4)被爆時医療
を受けなかった有傷無傷の生存者の検査、(5)被爆
条件の明かな生存者の調査、(6)調査事例や病理解
剖資料の収集、(7)人口および人的被害の数的調査
の資料の収集、(8)建物の被害と遮断条件の資料の
収集、(9)フイルム、写真等の入手などの作業をお
こない、調査事例総計13.500 例、病理解剖資料
217 例、写真等 1.500 枚に達した。これらの資料
の大部分は日本の医師、研究者の自発的ないし学
術研究会議特別委員会としての組織下での調査研
究活動の成果であり、合同調査の建て前によりア
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メリカ側に提供されたものである。提供という形
をとってはいるが、実際には、そこに占領国とし
ての強権が介入したことは否めない。このように
してすべての資料はアメリカに送られ、陸軍病理
学研究所 Armed Force Institute of Pathalogy
(AFIP)その他に保管された。
米国戦略爆撃調査団は、もともとドイツに対す
る爆撃の効果を調査するため、1944 年11月アメ
リカ陸軍によって組織されたものであるが、日本
降伏の1945年8月15日トルーマン大統領は調査
団に対し、日本におけるあらゆる影響を調査し、
その結果を陸軍省および海軍省に報告することを
命じた。調査団はタラキン・ドリバーを団長、ポー
ル・ニッチェ、ヘンリー・アレキサンダーを副団
長とし文官300名、将校350名、下官兵500名計
1.150 名から成る大規模な組織で東京に本部名古
屋、大阪、広島、長崎に支部をおいた。日本各地
太平洋諸島、アジア大陸にまで移動する力を持ち、
2月から1946年初めまで広域かつ徹底的な調査を
行った。調査団の目的はアメリカ国防省戦略政策
の決定に役立つ資料を入手することにあったのだ
から、調査自体が一種の軍事行動であった。調査
立案目標のひとつに都市爆撃があり、なかでも原
子爆弾投下の影響調査は、最も重要でかつ高度に
戦略的意味をもつものであった。オーターソンは
日米合同調査班の第1回会合(1945年9月22日、
東京大学医学部)の席で「戦争はすでに終わった
ことである。そればかりでなく、いかなる場合で
も学問は政治にわずらわさせてはならない。この
調査は全くの日米合同の事業であって、資料入手
のためには、日本側の全面的協力を期待する。し
かしその結果を公表するにあたって、決して日本
人の頭脳と労作の成果を奪い去ろうとするもので
はない。」と述べたと伝えられているが、この科学
の論理は戦略爆撃調査の立場から、無縁のもので
あった。原子爆弾災害研究における日米関係は、
このようなアメリカの態度の二重性格によって特
徴づけられていたといえよう。
日米合同調査団および米国戦略爆撃調査団が入
手した諸資料の解析に従い、アメリカの関係者の
間には、日本における原子爆弾影響についての調
査をさらに継続してすすめる必要がみとめられる
ようになり、1943年11月18日海軍長官ジェーム
ス・フオンスタルはトルーマン大統領にあて、原
子爆弾傷害の後遺症を継続して調査することを建
言した。11 月26 日大統領はこの建言を採択し米
国学士院・学術会議に対し、原爆傷害調査委員会
(ABCC) の設置を指令した。米国学士院・学術会
議は ABCC の仕事の具体化について検討を始め、
1946 年12月オースチン・ブルースとポール・ヘ
ンショーを主宰とする調査団を日本に派遣した。
ブルース・ヘンショー調査団は日本での調査の後、
ABCCが、癌、白血病、寿命の短縮、精力の減退、
成長発育の障害、不妊、遺伝形式の変化、視力の
変化、異常色素沈着、脱毛、疫学上の変化などの
諸事項を研究対象として、とりあげるよう勧告し
た。1947年4月広島赤十字病院で、ジェームス・
ニールが被爆者の血液学的調査に着手したのが
ABCCの日本における仕事の第一歩であった。ひ
きつづき、スネル、シャル、コーガン、グリコー
リックらにより、妊娠終結、遺伝的影響、白内障、
児童の成長障害などの調査研究がこころみられた。
それらとともに日本政府の協力とABCCの仕事の
たの施設の必要が感じられるようになり、1947年
6月ABCCのシールズ・ウオーレン、カール・テ
ママーおよびニールは都築正男を同道して、厚生
省予防局長浜野規矩夫、検定学長小川朝吉、日立
予防衛生研究所長小林六造を予防局に訪問し、米
国学士院、・学術会議-ABCCの原子爆弾影響の医
学的研究につき予防衛生研究所の協力を得たい旨
申し入れた。厚生省および予防衛生研究所は予算、
人員、研究計画など具体的な協力体制を検討し、
技官永井勇がその衛に当たるとともに遺伝学的研
究の顧問として木田文夫(熊本医科大学教授)を
予防衛生研究所嘱託とした。広島における施設と
しては 1948 年1 月宇品町所在の旧凱旋館の使用
が決まり、ABCC事務所が開設された。1948年8
月テルマーがABCC初代所長に就任、同年 移っ
て予防衛生研究所広島支所長兼 ABCC 副所長と
なった。その後1950年11月には広島市比治山公
園に恒久的な研究所が竣工し、翌年宇品からの移
転を完了した。長崎へは、1948 年7 月ブリュー
ワーが派遣されてABCCの作業を長崎保健所で開
始した。長崎に ABCC の施設が整えられたのは
1950 年7 月である。
以後 1975 年放射能影響研究所に移行するまで
の間、グランド・テイラー、ジョン・モルトン、ロ
バート・ホームズ、ジョージ・ダーリング、ルロ
イ・アレンが所長を歴任した。副所長兼予防広島
支所長に槙弘、副所長けん予防長崎支所長は永井
勇であった。
ABCCと予防衛生研究所は対等の立場で共同研
究を進める建て前であったが、占領期のみでなく
その後まで事実上アメリカ主導の機関であったと
言ってよい。アメリカ側に存在するABCC運営の
ための設問委員会に対応する形で日本側設問委員
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会がおかれるようになったのは 1955 年以後であ
る。日本側設問委員会は日本学術会議会長
広島、長崎両大学長、同医学部長、広島大学原爆
放射能医学研究所長、放射能医学総合研究所長、
広島長崎医師会長、厚生省公衆衛生局長、文部省
大学学術局員、などをメンバーとする会議で予防
衛生研究所長が議長をつとめた。1955 年以来
ABCC 閉鎖までに 14 回開催されている。また
ABCC自体ならびにその各部門に多くの日本人顧
問が置かれていた。しかし、臨床部、臨床検査部、
放射線部、病理部、統計部、医科社会学部などの
部長をつとめたのは、ほとんど全てアメリカ人で
あり、日本側設問委員会も日本人顧問も実質的発
言権に乏しかった。財政的にも日本側が負担した
のは、予防衛生研究所支部職員(約30名)の人件
費が主なものであり、主要経費はアメリカ側の負
担であった。1972-73年までの職員総数は639名
(うち日本人611名、アメリカ人28名)専門職員
(医師、研究者)は62 名であった。ニールらの初
期の調査の後、調査対象の抽出に問題があること、
また被爆者の実態を正確に反映する固定をし、そ
れを基礎に系統的なスクリーニング調査のプログ
ラムを組むことの必要性がみとめられるようにな
り1949年ABCCは被爆人口調査を行った。また、
1950年の国勢調査に際して、全国規模の被爆者調
査を行った。これらの資料により、ABCCの定期
的外来検診の対象となる小児および成人のコー
ホートが選定された。このことはABCCの被爆者
調査の前進であったが、現実には調査対象者の確
保に困難があり、また成人検診の結果には、陰性
成績が多く、サンプル抽出の妥当性に疑問がもた
れるようになった。加えて閉鎖的な占領機関的性
格、アメリカ側専門職員の頻繁な交代、広島、長
崎の市民感情なども影響した。1955 年頃には
ABCC の調査活動は、全体として停滞気味とな
り、ABCC の将来に不安が持たれるようになっ
た。そのため、米国学士院はABCCの業績の点検
とその活動の活溌化を策して、ケイト・キャノン
を長とする調査団を送った。この調査団の小委員
会であったフランシス委員会はトーマス・フラン
シスを委員長、セイモア・ジャブロン、フエリッ
クス・ムーアを委員とし事態を詳細、検討の上
ABCCのための総合的計画を樹立し、それを勧告
した。フランシス委員会の報告は、対策としてプ
ロジェクト的調査の導入とそのサンプル抽出とな
る基本サンプルの設定を従案、勧告した。すなわ
ち、固定人口集団を確定し、それに基づいて疫学
的探索、継続的罹病調査、臨床的探索、病理学的
探索、死亡診断書調査と統計的にすすめることを
求め、主にオークリッジ国立研究所と協同して被
爆線量の推定をすすめることとしたのである。
その結果、1957 年エール大学人類生態学教授
ジョージ・ダーリングが新しい所長に選ばれ、
1958 年2 万人を対象とする成人健康調査、1959
年10万人を対象とする寿命調査、1961年病理解
剖調査をそれぞれ再発足した。また、その時期ま
での占領機関的閉鎖性、戦略的秘密主義の傾向も
漸次解消されるに至った。
VIIIサンフランシスコ条約以降
占領期間中の日本の原子爆弾災害の研究およびそ
の結果の公表は著しい制約を受けた。学術県会で
の原子爆弾災害についての発表は1947年第12回
日本医学会総会での総会講演(菊池武彦、木本誠
二、中泉正徳、木下良順ら)を最後に1951年まで
中断し、また学会での原子爆弾関係の個別的報告
は認められても、その印刷公布は原則として禁止
された。1960 年ABCC が編集した「原子爆弾に
よる障害研究文献集」を見ると1945年から1951
年までの文献387編のうち日本の研究者の発表は
96編でそれも短報や抄録が大部分である。96編の
うち1946 年は30 編、1947 年は17 編で1948 年
はわずか4編、1949年には6編を見出すにすぎな
い。また医学的調査研究の中心的人物であった都
築正男は1949年3月24日の総司令部覚書により、
6ヶ月の猶予期限付で公職追放除外を取り消され、
以後講和条約発効まで活動の自由を失った。
このような状況は、1951年サンフランシスコ条
約締結の年に入ると緩和され、翌年条約の発行と
ともに終了した。1951年12月9日にはABCCと
広島医学会が協力して「原爆影響研究発表会」を
広島県医師会館でひらき、ABCC の事業の概要、
調査研究の結果などがはじめて日本の医師、研究
者に報告された。翌1952年1月には、日本学術会
議の協力により、ABCC の報告会が東京で開か
れ、ABCC・予防衛生研究所の関係者と日本学術
会議関係者の懇談が行われた。日本の学会が再び、
自由かつ自主的に原子爆弾傷害の研究をとりあげ
るようになったのは、1952年2月の第4回広島医
学会総会がはじめてである。この学会ではとくに
講和条約批准を記念して「原子爆弾症に関する会
員の研究発表会」がもたれ15 題の報告が行われ
た。ついで同年4月には日本血液学会は大阪にお
ける総会で「放射線殊に原爆傷害に関するシンポ
ジウム」を開いた。急性不良性障害(臨床:桝屋
富一、血液像:脇坂行一、骨髄像:中尾嘉七、病
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Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001
理:三宅仁、
慢性障害、病理: 漸)被爆者白血病(山脇卓
)などの報告があり、後に日本血液学会編「血
液学討議会報告集第 5 編」(1953)に記録が収め
られた。
占領体制終結の動きにともない、都築正男や日
本学術会議第7部を中心に原子爆弾災害の総合的
研究体制再建の議がおこった。この企ては急速に
具体化し。1953年文部省下科学研究交付金の配当
を得て、総合研究班「原爆災害調査研究班」が組
織された。代表者には日本学術会議第7部長塩田
広重が推され、班員は広島、長崎の研究者をふく
め29名であった。第1回の研究報告会は1952年
9月28日阿賀町の広島県立医科大学(現広島大学
医学部)で開かれた。この総合研究班は1957年度
まで2期6年間継続し、1958年度からビキニの水
爆による障害をも研究対象に加え、メンバーも変
動して「原水爆被害に関する総括的研究班」とし
て、再組織の上、1960年まで活動を続けた。また
1959年渡辺漸を代表者とする「白血症の発生と治
療に関する基礎的研究班」が文部省科学研究交付
金によって組織され、この研究班は名称、組織を
若干づつ変更しながら 1967 年まで継続した。
1953年11月12日、政府は国立予防衛生研究所
に「原爆症調査研究協議会」を設置した。国立予
防衛生研究所長小林六道を委員長とし、小島三郎、
古野英雄(広島県衛生部長)、松坂泰正(広島県医
師会長)河石九二夫、渡辺漸、一瀬忠行、(長崎県
衛生部長)調来助、松岡茂、中泉正徳、三宅仁、都
築正男、菊池武彦が委員に、槙弘、永井勇らが幹
事に指名された。この協議会は広島、長崎の被爆
生存者の調査および原子爆弾症治療指針の起草、
作成(内科・菊池武彦、操胆道、浦城二郎、外科・
都築正男、調来助、河石九二夫、)を任とし、1954
年2月には原子爆弾症治療指針についてのシンポ
ジウムを主催した。これより先1953年1月広島に
5月には長崎に「原爆障害者治療対策協議会」(原
対協)がそれぞれ成立している。原子爆弾障害の
研究、治療対策を推進するための医師会、大学、病
院、民間団体および地方自治体の協力組織で、の
ちに財団法人は改組拡充し、被爆者健康管理の中
心となった。原爆症調査研究協議会の仕事は現地
では原対協によって支えられ、また1959年には広
島、長崎の原対協を基盤として「原子爆弾後障害
研究会」が組織された。広島、長崎の医師、研究
者を中心に全国から原子爆弾後障害に関心を持っ
た者が集まる学術研究会で、以後毎年広島、長崎
交互に研究集会を催して今日に至っている。1965
年第 7 回原子爆弾後障害研究会は広島で開かれ、
被爆20年を記念して「原爆後障害20年のまとめ」
が総括された。
X放影研・広爆放射能直営研究所等及びABCC廃
止
日本学術会議は1954年10月「放射線基礎医学
研究所」設置の提案を可決し、この学術会議の要
望は種々の曲折ののち、1952年7月科学技術庁所
管の「放射線医学総会研究所」として実現した。放
射線医学総合研究所に対し、ABCCから被爆線量
推定について協力要請があったのに対して1962
年放医研は竹内に研究グループを発足させ、8 月
橋詰雅を第1クリッジ国立研究所に送って、実験
計画の打ち合わせ、ガンマ線については、残存ビ
ルの煉瓦やタイルを用いた熱蛍光法により、また
中性子線につてはビルなどのコンクリート中鉄筋
のコバルトの放射線量測定により、実験をすすめ
た。
広島大学は1954年以来「放射能医学生物学研究
所」を構想していたが、1958年医学部は「原子放
射能基礎医学研究施設」の一部門(原子放射線医
学理論部門・教授吉永春馬)が設置され翌年「原
子放射能傷害医学部門」(教授朝長正充)が増設さ
れた。他方広島市原爆障害者治療対象協議会は
1954年6月原子爆弾障害究明のための総合的研究
機関の設立を厚生大臣に陳情し広島市および広島
市議会もこれに賛同し、政府に対して要求を継続
していたが、1960年末において「原子放射能医学
研究施設」を基礎に大学附属研究所として「原爆
放射能医学研究所」を新設する方針を政府、与党
に採択せしめることに成功した。広島大学放射能
医学研究所が渡辺漸を所長とし、障害基礎(教授
吉長春馬のち竹下健児)臨床第一(教授朝長正充、
のち内野治人、藤本淳)、病理学および癌(教授渡
辺漸、のちに横路謙次郎)疫学および社会医学(教
授志水清、のちに渡辺孟、栗原登)の4部門をもっ
て発足したのは1961年4月である。その後1962
年には血液学(教授、大北威)、遺伝学および優生
学(教授、岡本直正)、化学療法および生化学(教
授、栄谷篤弘、のちに大沢省三)、臨床第二(教授、
江崎治夫のちに服部孝雄)、1969年には生物統計
学(教授、渡辺嶺男のち務中昌巳)、1970 年には
放射線誘発癌研究(教授広瀬文男のち伊原明弘)
の各部門が増設され、また「原爆災害学術資料セ
ンター」が附設された。
1962 年長崎大学医学部に「原爆後障害研究施
設」が設置された。当初、異常代謝部門(教授、小
池正彦)がおかれ、以後年度を追って、放射線生
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物物理(教授、岡島俊三)病態生物学(教授、西
森一正)、後障害治療(教授、朝長正充のち市丸道
人)先天異常(教授、塩見敏男)、発症予防(教授、
山下一郎)の各部門が増設されさらに「原爆災害
資料センター」が附設された。広島、長崎両大学
の研究所および施設はそれぞれ研究部門を持ち、
これより先開設された広島原爆病院(1950年9月
20 日開設)、長崎原爆病院(1958 年5 月28 日開
設)とともに被爆者医療の専門病院としての機能
を果たすこととなった。
ABCCは占領期間中の開設であり、高話条約締
結とともにその位置づけは当然再検討を要するも
のであった。またABCCの国立予防衛生研究所の
協力関係も本来必ずしも明確でなく、文書による
取り決めもなかった。1951年頃から、日米両国政
府間でこの問題は再三協議の対象となったが、結
局なんらの決定的な取り決めに達することなく
1952年4月28日サンフランシスコ条約の発効を
むかえた。同年10月22日アメリカ大統領はABCC
およびそのアメリカ国籍を有する外職員に日本政
府が関税租税物質通貨等につき特別の取り扱いを
与え、その科学的調査の遂行を容易ならしめるよ
う日米両国政府間が了解を確認することを文書を
もって、外務省に要請し、これに対し外務省は同
年10月23日付口上書をもって、この了解を確認
する旨回答した。さらに、同年10月28日付けで
外務事務次官より構成事務次官あてABCCを在日
アメリカ大使館の付属機関と認め、その職員とと
もにアメリカ大使館および職員と同様の特権的取
り扱いを受けるべきものである旨通知した。すな
わち口上書をもって、ABCCの存在を既成の事実
として確認し了解するにとどまったのである。
しかしABCCをかこむ諸状況の変化を背景に、よ
り直積的にはアメリカの財政事情の悪化を反映し
て、1960年代にはいると、ABCCの改組問題が関
係者の間でとりあげられるようになった。問題が
日米両国政府間の協議に移されたのは1969 年で
あり、以後折衡がくりかえされて、1974 年6 月
ABCCおよび予防衛生研究所支所を廃止し「この
調査研究を引き継ぐものとして、日米平等の参加
のもとに、管理運営される新しい研究機関として、
日本国の法律に基ずく財団法人が日本国に設立さ
れることが望ましい。」とのことで、両国政府間の
意見の一致をみるに至った。両国間協議にあたっ
たのは、日本は外務省と厚生省の代表、アメリカ
側は原子力委員会、米国学士院および在日アメリ
カ大使館の代表であり、合意成立後は所定の手続
きを経て、1974年12月27日外務省において宮沢
喜一外務大臣、ホッドソン駐日アメリカ大使の間
で「財団法人放射線影響研究所の設立に関する日
本政府とアメリカ合衆国政府の間の書簡」が交換
された。
1975年4月発足した「放射線影響研究所」の管
理機関は理事会で、理事10名、監事2名とし理事
長1、事務理事2名を選出する。その配分は日米同
数交替制を原則とすることとなっている。初代理
事長は山下久雄、1978年に玉木正男と交替、副理
事長にロイ・アレン、常務理事には高部益男とス
チュアート・フインチが就任した。研究所の経費
は日米両国が均等に負担することになっており、
1978 年度総額約 23 億円であった。
文献
1. 飯島宗一「広島、長崎でなにが起こったのか」
岩波ブックレット No8 岩波書店、
1982
2. 広島市、長崎市原爆災害誌編集委員会(飯島宗
一、今掘誠二、具島兼三郎、)「広島、長崎の原
爆災害」、岩波書店、1979
3. 飯島宗一、相原秀次「原爆をみつめるー1945
年広島、長崎」岩波書房、1981
4. C、Gウイーラマントリ、原善四郎、桜木澄和
訳「核兵器と科学者の責任」中央大学出版部、
1987
5. 中日新聞社編「ヒロシマ25 年、広島の記録 3、
1971、未来社
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Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 2(1) October, 2001
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